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「日本磁器のふるさと 肥前~百花繚乱のやきもの散歩~」をたずねて・・。

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「日本磁器のふるさと 肥前~百花繚乱のやきもの散歩~」をたずねて・・。
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長崎・佐賀にまたがる肥前はやきものの里として、古くから独自の優れた磁器を生み出してきました。
豊かな自然に恵まれたこの地域では多くの窯元が立ち並び、陶器市の頃は多くの人で溢れます。
その人気は日本だけに留まらず、世界からも称賛されています。
長崎県には三河内焼・波佐見焼・平戸など優れた技術が息づいた町があります。
ぜひ、やきものの魅力を味わいにぶらりと訪れてみたいものです。

★日本磁器のふるさと 百花繚乱のやきもの散歩  日本遺産決定!!

◆ストーリーの概要

 陶石、燃料(山)、水(川)など窯業を営む条件が揃う自然豊かな九州北西部の地「肥前」で、陶器生産の技を活かし誕生した日本磁器。
 肥前の各産地では、互いに切磋琢磨しながら、個性際立つ独自の華を開かせていった。その製品は全国に流通し、我が国の暮らしの中に磁器を浸透させるとともに、海外からも賞賛された。
 今でも、その技術を受け継ぎ特色あるやきものが生み出される「肥前」。青空に向かってそびえる窯元の煙突やトンバイ塀は脈々と続く窯業の営みを物語る。
 この地は、歴史と伝統が培った技と美、景観を五感で感じることのできる磁器のふるさとである。

出典 http://www.pref.nagasaki.jp

★三川内焼

三川内焼(みかわちやき)は、平戸焼(ひらどやき)ともいう、長崎県佐世保市で生産される陶磁器である。昭和53年(1978年)に経済産業大臣指定伝統的工芸品の認証を受けている(認証番号14-119)。現在14の窯元がある。針尾島の網代陶石と肥後天草陶石を用いた白磁に藍色で絵付けがされた物に代表され、デンマークの博物館長を務めたエミール・ハンノーバーは、著書『日本陶磁器考』の中で「1750年から1830年の間の日本磁器の中では白色に光り輝く最高の製品」と称賛している。

歴史

豊臣秀吉が起こした朝鮮の役の際、各地の大名は秀吉の命により、朝鮮の陶工が来日した。平戸藩藩主である松浦鎮信も多くの陶工を連れ帰った。
慶長3年(1598年)、巨関(こせき)という陶工は、帰化して今村姓を名乗った後、平戸島中野村の中野窯で藩主の命により最初の窯入れをした。
この中野焼が三川内焼の始まりといわれている。
同じく朝鮮から来た陶工の高麗媼は、中里茂左衛門のもとに嫁いだ後、元和8年(1622年)に三川内へ移住した。
また、巨関は1622年ごろ、中野村に陶土がなくなったために陶土を求め、息子の今村三之丞と共に藩内を転々とし、寛永14年(1637年)、最後に行き着いたのが三川内である。
その後、慶安3年(1650年)に中野村の陶工が、平戸藩により三川内に移された。

出典 http://ja.wikipedia.org

唐子絵

唐の子どもたち(唐子〈からこ〉)が唐扇を持ち、松の木の下で牡丹に飛ぶ蝶と戯れている様子が描かれている。当時は、描かれた唐子の人数によって用途が異なっており、7人唐子は将軍家や朝廷への献上品で「献上唐子」とよばれ、5人唐子は公家衆と大名家、3人唐子は一般大衆用とされた。なお、三川内焼400周年の際にそれを記念して400人唐子の大皿が製作されており、三川内焼美術館で見ることができる

出典 http://ja.wikipedia.org

透かし彫り

彫刻で、金属・木・石などの薄板を打ち抜いて模様をあらわす技法。また、その彫刻したもの。欄間の彫刻、刀剣の鍔(つば)などに見られる。その他色々な焼き物などで使われる技法として有名である。香炉や多宝塔などの作品がある。

卵殻手(薄胎)

その名が示す通り、光を通すほど薄く、網代陶石のみを使用・手作りで成型・起こし焼きで焼成したものでなければならない。 「箸より軽い茶碗を」という藩命で、相神浦(相浦)出自の池田安次郎が完成させた。輸出先のヨーロッパでも「エッグシェル」と呼ばれ人気を博す。第二次大戦後、製作が途絶えていたが、平成18年に平戸藤祥窯が復元。皇室に献上され、著名人にも贈られた。

出典 http://ja.wikipedia.org

三川内焼伝統産業会館(三川内焼美術館)

三川内焼伝統産業会館には、江戸期から明治期にかけての貴重な白磁の作品と、名窯元競演による現代作家のコーナーがあり、伝統工芸士たちの作品も多数展示されています。


一般に、古平戸といわれる三川内焼古美術の逸品と400年の伝統を受け継ぐ現代三川内焼の秀作の数々が展示されています。

館内では、楽焼(絵付け)や透かし彫り体験ができます(有料)。

出典 http://www.sasebo99.com

住 所 〒859-3151 長崎県佐世保市三川内本町343 電話番号0956-30-8080

料 金 無料 営業時間9時00分~17時00分
休 日 年末年始(12月29日~1月3日)

駐車場大型バス乗り入れ可能。普通乗用車170台程度駐車可
アクセス <バス>佐世保駅から西肥バス伊万里方面行きで35分。三川内支所前下車すぐ
     <車>西九州自動車道三川内ICより5分

三川内焼絵付け体験

普段、対面で触れ合うことのない陶器。絵付け体験で気軽に三川内焼にふれてみませんか??お皿やマグカップ、湯呑に下書きから完成まで、あなただけの絵付けを施して下さい。世界で1つだけのオリジナル陶器を作ることが出来ます。完成には約10日~15日ほどかかりますが、手元に届いた時には感動を共にお届けする事でしょう。

出典 http://www.sasebo99.com


★波佐見焼

波佐見焼(はさみやき)は長崎県東彼杵郡波佐見町付近で産する陶磁器。慶長年間、藩主大村氏が朝鮮から連れ帰った陶工に始まる。丈夫な日用品が多い。[1]

江戸時代から大衆向けの食器を巨大な連房式登窯で多量に焼いてきた。今日でも食器生産が盛ん。1990年代前半には、全国の生活雑器のシェアの1/4から1/3を占めたこともある。

出典 http://ja.wikipedia.org

歴史・特徴

大村藩主の大村喜前が文禄・慶長の役から帰国するとき、朝鮮陶工の李祐慶が同行し、彼が慶長3年(1598年)に村内に登り窯を築いたのが始まりとされる。当初は釉薬を施した陶器を焼いていたが、良質の陶土を発見したことによって磁器生産が中心となった。

当初は三股郷の陶石を原料とし、青磁が主力であった。その後、砥石として広く流通していた天草の石が白磁原料に向いていることが判明し、大量に天草砥石を購入して町内全土で磁器生産を行うようになった。

大衆向け陶磁器を志向し、大量生産に特化してきた。中尾上登窯(17世紀中葉-1929年)は全長約160mという巨大な窯であった。

一方で、隣の有田・三川内との薪炭材をめぐる諍いも激しかった。三藩が接する幕の頭(まくのとう)と呼ぶ山では、互いに領地を侵して薪を盗んでくることも日常的で、山の中で乱闘・殺し合いも起きる有様だった。結果、三藩の協議によって領地の見直し交渉が何度も実施されることになる。幕の頭山頂に立つ三角柱の「三領石(さんりょうせき)」は、薪をめぐる陶工たちの争奪戦からの産物である。

出典 http://ja.wikipedia.org

くらわんか碗

江戸時代に生産された、簡単な草花文などの絵付を施した磁器。それまで磁器は赤絵染付など高価なイメージが強く、庶民にとって高嶺の花であったが、このくらわんか碗は「磁器は高い」という従来の常識を覆し、庶民に普及した。名称は、淀川の京都・大坂間にある枚方宿で、商人が小舟で三十石船に近づいて「酒食らわんか餅食らわんか」と囃しながら食事などを売った「くらわんか舟」に由来する。

コンプラ瓶

1790年に初めて作られ、1820年代から盛んに生産されるようになった、酒や醤油の輸出用の瓶。当初、木の樽だと風味が保てないため、オランダ商人らは、自分たちが持ってきたワインの空き瓶を利用していたが、出荷量の増加に対応するため、簡素な染付白磁を用いた徳利型の瓶を作らせた。中身を示すためオランダ語で「JAPANSCHZOYA(日本の醤油)」または「JAPANSCHZAKY(日本の酒)」と書かれている。名称はポルトガル語で仲買人を意味する「コンプラドール(comprador)」に由来する。

出典 http://ja.wikipedia.org

コンプラ瓶について
 コンプラの語源 conprador はポルトガル語で“仲買人”という意味です。
 オランダ人に日用品を売る特権を与えられた商人をコンプラ商人とよび、その組合をコンプラ仲間といいました。コンプラ瓶はコンプラ仲間が作っている「金富良商社」ブランドの瓶です。
 波佐見焼きのコンプラ瓶に詰められた醤油が出島から輸出されるようになったのははっきりした年代は分かりませんが、幕末の頃と類推できます。
 『波佐見陶史』(昭和44年)に古老の話の記述として次のように記されているそうです。
波佐見蘭瓶長崎港輸出
 この蘭瓶については、中尾皿山の人で小柳市左衛門(小柳満太郎祖父)という人が、長崎の貿易商社、コンプラ会社と長崎市古川町吉田松兵衛という人との間に一手特約を結び、小柳氏を中心に三股永尾の三皿山で、壱ケ年四十万本くらいを特約し、製造を始め取引をしていたが明治初年頃から次第に特約も減少し、明治40年頃は拾万本、大正5年頃は三万本、大正六・七年には壱万数千本の特約となり、その後醤油の製造が粗悪になってきたために、ついに注文皆無になったと言われている。
 この蘭瓶は醤油三合入りの徳利であった。

 40万本ものコンプラ瓶が長崎から輸出されていたのが、貿易自由化される1859(安政6)年以前か以降かは定かではありませんが、長崎港から輸出された大量の醤油瓶は、今もヨーロッパの古道具屋で目にすることがあるそうです。

出典 http://www19.big.or.jp

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